「子宮に沈める」

大阪二児遺棄事件を下敷きにしたノンフィクション映画。長女の幸と長男の蒼空の母親である由紀子は夫に別れを告げられ、一人で家庭を養うことになる。職歴のない由紀子は資格取得の勉強の傍ら、長時間のパート労働と保育園に預けることもできない二児の世話をこなす。その生活にも破綻が見え始め、高校時代の友人から夜職を薦められたことを境に、由紀子の生活はさらに不安定になる。子供の目覚めている傍らで男に執拗に迫られ、まだ起きてると抵抗する様に、まだ生活の前向きな兆しは見えていたものの、遂に由紀子は子供を放棄したまま、家を出てしまう。残された子供たちは母親がそのうち帰ってくることに疑いもせず、家の中にある食料を探す。食料が底を突き、粘土まで食べるようになった頃、由紀子は突然帰宅する。とうに絶命した長男に湧いた蛆虫を片付けるほか、長女を風呂場で殺害してしまう。妊娠を思わせる由紀子自身は、針で堕胎を試みながら、ブルーシートで包んだ児らと共に青空を見つめる。

本作の何よりもの特徴とは、一切映画的な技巧を排したリアリズム描写にあるだろう。カットは暗転のみで切り替えられ、同一ショット内のカット割はほとんど見当たらない。この手法が最も功を奏しているのは由紀子が子供を放置した後の淡々とした室内描写である。ミルクの粉を冷えた天然水で溶かすところから、粘土を口にする、パインの缶を包丁で切ろうとする、ハイターを飲料とする弟と、それを制止する姉、これらの前論理的感覚ゆえに道具の用法を誤ってしまう様に、私たちは無力感を覚える。それが飢餓ゆえの本能的衝動なのか、あるいは幼児の無知性によるのか、区別のつかないところに、この映画の描く悲しみがある。

本作の内容は必然的に是枝監督「誰も知らない」を連想させる。しかし、それと異なるのは前者が大きく人間を肯定していることに対し、本作はむしろヒューマニズムの否定へと遡っているように見えることだ。最後の長男と長女の物象化は、あるいは蛆虫の湧く様とそれをマスク姿で取り除く由紀子の、突き放された冷徹さがある。

現実をそのまま描写しただけと言えばその通りであり、これは映画というよりもルポルタージュである。ただ、鈍痛に沈んだ私たちに雨曝しの痛みを感じさせてくれる、現実がそこにあるように見える。私たちの現実感覚の希薄さを、悲惨な状況を小時間体験することによって解消するというのは、あってはいけない消費であるとも思う。